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浅葱色

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 6月20日(土)20時47分28秒
返信・引用
  【浅葱】(あさぎ)
 (薄い葱(ねぎ)の葉の色の意。「浅黄」とも書く)
 1.薄い藍(あい)色。みずいろ。うすあお。
 2.(六位の人の袍の色が浅葱であったから) 六位をいう。
  源氏物語少女「浅葱にて殿上に帰り給ふを」
 3.あっさりと控えめなこと。また、いい加減なこと。
  浄、心中重井筒「何事もさらりつと浅葱にいうて」
 4.浅葱裏の略。
   《広辞苑・第五版》

 浅葱色というと、薄い黄緑色かと思っていました。理由は、浅葱色を浅黄色
 とも書くから。この点は、「浅葱は浅黄とも書く」と広辞苑の説明にもある
 通り。

 しかし、実際の浅黄色は黄緑色ではなくて、薄い青というか、薄い藍色です。
 辞書の説明の1にも「薄い藍色。みずいろ。うすあお。」とあります。これ
 もこの説明の通り。
 ここで、浅黄の「薄い葱きの葉の色の意」という一文を思い出して、葱の葉
 を思い浮かべると確かに、しっかりとした葱の葉は青味を帯びています。

 薄い青色は、葱の葉を思い浮かべるとなるほどと納得出来ますが、それなら
 浅葱を「浅青」と書くのなら解りますが、なぜに「浅黄」なの?
 日本の傳統色(長崎盛輝著)という本で浅葱色という項目を調べてみると、

  「浅葱」はわかい葱に因んだ色であるが、その染色は実物の葱より青味が
  ちの浅い緑青色である。古実書には浅葱色を水色と同色と見ているものが
  あるが、水色は浅葱色よりも淡く青味がちである。
  浅葱色は後に誤って「浅黄色」と書かれているが、本来の浅黄の色は、文
  字通り淡い黄色である。

 と書かれています。「浅葱」も「浅黄」も「あさぎ」と読めますから、間違
 えられるようになったのでしょうか。
 ちなみに前出の「日本の傳統色」によれば、色の「浅黄」は「うすき」と読
 むようです。気をつけて書き分けねば。

 ただ、この色を青味のある色か、黄味のある色かを取り違えたのは何も現代
 の私たちだけではないようで、平安後期に書かれた「今鏡」に、浅葱色につ
 いて

  青き色か黄なるかなどおぼつかなくて

 と書かれているとか(これも前出の本の説明から)。
 平安の時代から伝統的に紛らわしい「浅葱色」だったんですね。
 でも、知ったからには浅葱色と浅黄色、しっかりと使い分けて行きたいと思
 います。
 
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 6月17日(水)07時24分57秒
返信・引用
  嘉祥の儀(かじょうのぎ)
 嘉祥の儀は旧暦の六月十六日に行われた行事です。これをその日付のまま新
 暦に移して新暦6/16が「和菓子の日」となっているのは「今日の記念日」に
 あるとおりです。

◇嘉祥の儀の始まりは
 江戸時代の百科事典である「和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)」には、
 承和十五年( 848年)に、朝廷に白亀が献上されたことから、これを瑞祥と
 して、仁明天皇がこの年を「嘉祥」と改元し、群臣に十六種類の食物を賜っ
 たことに始まったと言われます。

 室町時代以降となるとこの宮中行事が武家にも拡がり、この日は16文で菓子
 を求めてこれを食するようになりました。旧暦六月といえば暑さの厳しい時
 期ですので、一種の暑気払い行事となっていったようです。

◇江戸城での嘉祥の儀
 江戸城ではこの日、将軍から杉の葉を敷いた片木盆(へぎぼん)に十六種類
 の菓子盛りを諸大名や家臣に与えています。ちなみに「片木」は杉や檜の木
 を薄くはいだものです。

 このとき将軍から与えられた嘉祥菓子はどれくらいの数かというと、当時幕
 府御用菓子師が納入した記録には、総数1612膳とあるそうです。
 1612膳もの片木盆が並んだ様子は壮観だったでしょうね。

◇七嘉祥
 さて、いつの時代もあまり煩瑣なものは省略されてゆくもの。目出度い祝い
 といっても十六種類の菓子とは少々種類が多すぎます(食べるのだって大変
 です)。ということで、十六の「十」を「一」に置き換え、

  「一」+「六」 = 「七」

 として七種類の菓子で祝うことがあり、この七種類の菓子を七嘉祥と呼ぶよ
 うになりました。まあこうした省略の風の染まらず、十六種類を通すところ
 もありました。七種にするか、十六種類にするか、さてどっちがうれしい?
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 6月12日(金)15時22分9秒
返信・引用
  【青梅雨】(あおつゆ)
 青梅雨とは、梅雨の異称の一つ。季語の一つでもあります。

 梅雨の時期は、雨降り続きでお日様の顔を拝する回数が減ってしまいますが、
 そのお日様の光を梅雨入り前にたっぷりと浴びた木々ははつらつとして、そ
 の葉の色を濃くする時期でもあります。
 青梅雨はそうした木々の葉に降る雨を指す言葉です。

 葉を十分に茂らせた木々の間を歩けば、雨が木々の葉に当たる音が聞こえま
 す。そして、木々の葉によって一呼吸分留まった雨粒が落ちてきます。
 空からではなく、木々の葉から枝から、雨粒が落ちてきます。
 ただただやっかい者にしか見ええない梅雨の長雨も、木々の生育に必要な天
 の恵みとして木々を潤す様を目にすることが出来ます。

 雨を嫌うばかりではなく、木々と共にこの天からの恵みの雨を楽しんでみれ
 ば、梅雨もそれまでと違った顔を見せてくれることでしょう。
 青梅雨は鬱陶しい雨の季節の、ただそれだけではない違った一面を感じさせ
 

葭始めて生づ

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 4月22日(水)07時31分4秒
返信・引用
   七十二候の一つ、二十四節気「穀雨」の初候は

  葭始めて生づ (あし はじめてしょうづ)

 です。今年(2009)は4/20がこの候の始めとなっています。

 葭は、葦とも蘆とも書く水辺の多年草です。
 辞書の説明を借りれば、

 【葦・蘆・葭】(あし)
  イネ科の多年草。各地の水辺に自生。世界で最も分布の広い植物の一。
  地中に扁平な長い根茎を走らせ大群落を作る。高さ約 2メートル。
  茎に節を具え葉は笹の葉形。秋、多数の細かい帯紫色の小花から成る穂を
  出す。茎で簾(すだれ)を作る。よし。
  菟玖波集「難波(なにわ)の葦は伊勢の浜荻」
   《広辞苑・第五版》

 さらに漢和辞典を引くと「葭」という文字の意味は、穂の出ていない葦とか。
 春になり、雪解けの水で水量が増え、水をかぶる川岸には、鋭い円錐形の葦
 の芽が川岸を覆った水面から顔をのぞかせます。

 葦の芽ですから、当然まだ穂は出ていませんので、漢和辞典の説明通りであ
 れば、「葭」というべきでしょうか。
 この水面から顔を出した葦の若芽は、

   葦牙(あしかび)

 とも呼ばれます。その鋭い円錐形の姿を牙と見立てた言葉で春の季語ともな
 っています。また牙でなく、「角(つの)」と見て、葦角(あしづの)とも
 呼ばれます。
 冷たい水を葦の牙が切り裂いた後には、新しい季節が訪れるのでしょうか。

◇「あし」と「よし」
 ちなみに、【葦・蘆・葭】は「あし」と読む一方で「よし」とも呼びます。
 これは、

   あし = 悪し

 に通じるとして、この悪い連想を忌んで「よし = 善し」と言い換えるよ
 うになったものだと言われます。
 同じ感じで、正反対の意味の読みとは紛らわしい。縁起担ぎの言い換えも

   よしあし (善し悪し ? 葦葦)

 といったところでしょうか?
 何はともあれ、川岸に葭が生じ成長を始めるころには、川の水も温む季節と
 なります。
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 4月17日(金)14時19分46秒
返信・引用
  春土用の入り(2009)
 今日、2009/04/17は春の土用の入りです。
 土用は四季それぞれの切り替わる時期の間に挿入された18ないし19日の期間
 です。四季それぞれの間に挿入されるわけですから、土用は年間4回です。
 元々は中国の五行説(木火土金水の5つの要素の組み合わせで森羅万象が成
 り立っているという古代の科学仮説)で季節の循環を説明するために四季に
 次のように五行の要素を割り振ったたときあぶれてしまった「土」を四季の
 間に挟むことでバランスをとったものです。

  春:木 夏:火 秋:金 冬:水 ・・・ ?:土

 五行説的な考えでは土用は、季節と季節の間にあって、季節の交代を円滑に
 すすめる働きをするとされています。

◇春土用の期間
 春の土用の期間は現在は太陽の黄経(黄道座標の経度方向の値)が27°にな
 る日から始まり、暦の上の夏の期間の始まりである立夏の直前の日までと決
 められています。
 立夏は 5/5ですから、春土用は 4/17~5/4の18日間ということになります。

◇春土用の間日
 土用の期間は、土公神(どくじん)という「土」を司る神様が力を強め、地
 上を支配する期間といわれ、土公神はその居場所をいじり回されるのを嫌う
 神様であるために土用の時期に、「土をいじる」行為は禁忌とされていまし
 た。

 土をいじることとは、土木工事、井戸浚い、耕作地を耕すこと、竈の改修な
 どなど。沢山あります。
 この沢山ある行為を土用の期間である18日間行えないとしたら、こうした仕
 事をする人たちはたまったものではありません。そこで考え出されたのが、
 「土用の間日(まび)」。この土用の間日に当たる日は、土公神の障りの無
 い日とされています。

 間日は、各季節の土用毎に決まった十二支の日と決められていて、春の土用
 の間日は、巳・午・酉の日。
 割合で巡ってきます。今回の土用の間日は

  4/18,19,22,30 5/1,4 の 6日

 です。
 この間日の期間は土公神様が地上を離れていらっしゃるそうで、このため土
 をいじっても祟られないということです。
 「土公神様の居ぬ間の土いじり」というわけです。


 土用は「季節の終わり」に挿入されていますから、春の土用がやって来たと
 いうことは、暦の上ではそろそろ春も終わりの頃、晩春と言うことになりま
 す。
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 3月 5日(木)07時56分11秒
返信・引用
   古典の「能」から、日本の「おに」と、漢字で書く「鬼」の意味は、 かなり意味合いが異なる。

漢字の鬼は、不吉なものの意味を含む。

日本の「おに」は、節分に出てくる愛嬌者のおに。

旧暦に合わせて、節分に豆まきをしますが、
 新暦で正月が一月、節分が二月に分かれてしまった。

  旧暦の正月と立春は相前後した一連の行事でした。
  立春の前日が節分、即ち、「一陽来復」で、新しい年がやってくる、
  その祓いの行事と招福のための豆まき
  (=鬼を追い払う)が節分の「鬼やらい」で、
 >
 > 予め退治される約束の「弱いおに」が節分の鬼で、
 > 桃太郎の鬼も、一寸法師の鬼も同じ意味の弱い鬼、
 >
 > 鬼を退治するお祓行事が節分(豆まきのための節分ではない)
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 3月 5日(木)07時40分2秒
返信・引用
  桃から豆への変化

追儺式は室町時代になると、宮中から公家、武家の上流社会、また神社やお寺に広まる。それと共に、鬼を追い出す小道具が変化しだす。それまで悪魔を払う力があるとされてきた桃への信仰がすたれる。桃は鬼退治する桃太郎の童話象徴するように、鬼が最も嫌う果実だった。『古事記』が 語るように、死んだイザナミが夫、イザナギにうじ虫わく醜い顔を見られたことを怒り、 鬼に追いかけさすが、この時、黄泉の国から必死に逃れるためイザナギが、鬼を振り切るために 投げ付けてきたのが、この桃の実であった。桃には百鬼を防ぐとの思想が中国から入ってきていたのである。その桃信仰がすたれ、変わってでてきたのが大豆だった。桃がすたれると、歩をともにして、 宮中の追儺もすたれる。これは戦乱による公家文化の崩壊と、無関係ではない。そして豆による追儺の広がりは、武家社会の発展、これに続く庶民の文化の発達によるといえる。
節分に豆を撒いて悪魔を祓う事は、江戸時代になって盛んになりだす。桃に比べ、グッと小さいが、カロリーがいっぱいつまった大豆。日本人は昔から、 大豆は米よりももっと力が付く食べ物である事をよく知っていたのだ。「畑の肉」といわれ、 豊かな蛋白質を有するのが大豆である。この豆を炒って「鬼打豆」と称した。節分に豆を撒いて悪魔を払う事は、江戸時代になって盛んになり出す。「鬼は外、福は内」といって豆を撒く。「鬼は外、福は内」の言葉は京都相国寺の禅僧、 瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』に出てくる。文安四年(一四四七)というから五百五十年近く前の室町時代。その十二月二十二日に、明日は立春なので黄昏に及び、部屋ごとに炒り豆を撒いたとあり、 「鬼外福内」の四字を唱えたと書いてある。
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 3月 5日(木)07時37分58秒
返信・引用
  追儺から来た神事

節分は実は大祓の神事である。大祓は一年を前半と後半に分けて、その最後の日に罪や穢れを祓うものだった。大祓は『広辞苑』によれば、そもそも六月と十二月の晦日(つごもり) に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪穢を祓った神事である。そして節分の豆撒きは、昔の追儺(ついな)または鬼儺(おにやらい)といった、 これも大晦日の夜、疫鬼を祓うために宮中で行われた儀式から来ている。これは疾病の鬼に扮した人を追い払うもの。その起源は中国で、周の時代、 方相氏(ほうそうし)という官職の者が、4つ目の大きな面をかぶり、赤い着物をつけ、 矛と盾を持って、悪魔を祓ったのだ。漢の時代には、これに桃の弓にいばらの矢が加わり、 赤頭巾をつけた沢山の子供が参加するようになる。これがそのまま日本に持ち込まれた。朝廷では大舎人寮(おおとねりりょう)の舎人が 鬼の役になり、大舎人長が4つ目の面をかぶり矛と盾を手に赤装束で、方相氏の役目をし、 この後ろには百人の子供がしたがったのだ。方相氏が鬼儺の詞を唱え、矛と盾を三回打つ。すると群臣が唱和して桃の弓、葦の矢、桃の枝でもって、内裏の四門をめぐって、 逃げる鬼を追い回し、退散させた。
こうした方相氏が主役を勧める追儺は、平安初期から盛んに行われていたとみえ、 文徳天皇の天安二年(八五八)四月二十五日の『日本文徳天皇実録』には 「夜、大舎人寮に火、追儺方相氏の装束一時滅却す」とあって、大事な追儺の装束が火事で焼けてしまったことがでてくる。そして日本における追儺の始まりは、文武天皇の三年(七0六)だと『続日本紀』はいう。いまの奈良県橿原市に都が置かれていた藤原京時代である。「この年、全国に疾病がはやり、 人民が多く死んだ。そこで初めて土牛を作って大儺(おおやらい)をおこなった」とする。この土牛については、陰陽寮式に土牛と童子らの像を、大寒の前の日の夜半に 皇居の諸門に立て、立春の前夜に撤去するとあり、追儺のためのものである。
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 3月 5日(木)07時35分9秒
返信・引用
  節分雑記

冬が去り、春がくる事を「一陽来復」という。その新春を迎える神事が節分祭である。節分とは現代では二月四日の立春の前の日をさす。太陽年を太陽の黄経にしたがって二十四に分け、立春、雨水、啓蟄、春分等と名付け、これを二十四節気というが、それ以外の八十八夜、入梅、土用などを雑節と呼んだ。節分はまたこの雑節の一つである。節分は立春、立夏、立秋、立冬、をもって四季の節目とした。だから節分は一年に四回あったが、旧暦では立春は特に一年の始まりにあたった事から、 この節目が重要視され、節分はこの時を指すようになった。現在は一日は朝に始まり夜に終わるが、昔は夜が一日の始まりだった。このため節分の夜と立春の朝は同じ日だったが、時間の観念に対する日本人の変化から、 節分は立春の前の日になった。こうした変化はまだある。立春は新しい年の初め、 すなわち新年の元旦であった。ということは節分は一年の終わり、大晦日だったのである。
 

(無題)

 投稿者:つきよみ  投稿日:2009年 2月28日(土)07時40分22秒
返信・引用
  閏日[うるうび]
    4年に1度(ただし400年に97日)の閏年[うるうどし]には、2月28日の翌日
    に閏日として29日が入る。これは、1年の日数が365日ではなく365.2422
    日なので、そのずれを調整する為である。西暦の年が100で割り切れ、
    かつ、400で割りきれない年は閏日を入れない平年になる。
    2月29日生まれの人は、平年には2月末日の満了の時、つまり2月28日が
    終了する瞬間に年齢が変わる。これは以下のような理由による。
    年齢の数え方については、法律で以下のように決められている。
    つまり、「年を単位として期間を定めた場合には、起算日の応答日の前
    日に期間が満了する。ただし、応当日がない時はその月の末日を満期日
    とする。」としている。これより、0歳の期間が満了するのは誕生日の
    前日が終了する瞬間(23時59分59.999...秒)で、その時から1歳というこ
    とになる。他の年でも同様に、誕生日の前日が終了する瞬間に年齢が変
    る。
    それで、2月29日生まれの場合は「ただし」以降が適用されて、平年で
    は2月の末日が満期日となり、28日が終了する瞬間に年齢が変る。運転
    免許の書換え等の場合は、免許の効力の満期日が2月28日となるので、
    その一箇月前の1月28日から書換えができる。
 

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