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許さん!

 投稿者:よたぼうず  投稿日:2016年 3月25日(金)23時30分20秒
  日本食肉加工協会が、習志野市をソーセージ発祥の地として認定しているというのはガセです。
日本食肉加工協会も勝手にやられてしまって困っているようです。電話して聞いてみてください。
日本で習志野より早くソーセージは作られています。それを星昌幸さんとう人が色々理由をこじつけてソーセージ発祥の地と言い出してしまったのです。
市職員それも教育課の人のやることか。あさましい。
 
 

坂井元昭

 投稿者:習志野市議会議員候補  投稿日:2013年 3月21日(木)23時12分44秒
  http://www.edoyagyouza.com/rekishi.htm  

坂井元昭様

 投稿者:千葉県  投稿日:2013年 2月21日(木)23時17分35秒
  メール会報 0516号 に、久しぶりに星昌幸氏の名前を発見。
教育委員会を追われて、今ではし尿処理のお仕事をなさって
いるとか。習志野市政はポルポトか!
 

(無題)

 投稿者:pp  投稿日:2013年 1月27日(日)22時31分27秒
  映画『払い下げられた朝鮮人-関東大震災と習志野収容所』

http://housenka.jimdo.com/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E6%83%85%E5%A0%B1/%E6%89%95%E3%81%84%E4%B8%8B%E3%81%92%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA-%E4%B8%8A%E6%98%A0%E4%BC%9A/

 

ドイツ兵俘虜について

 投稿者:西浦  投稿日:2012年 6月30日(土)19時44分27秒
  はじめまして。私は今大学でドイツ兵俘虜について学んでいる西浦と申します。
ここ約1年ドイツ兵が日本にもたらした食文化を中心に(バームクーヘンやロースハムなど)学習してきました。
そして今は瀬戸武彦先生の書かれた「青島から来た兵士たち」を参考にドイツ兵俘虜について調べています。
そこでいきなりで大変申し訳ないのですが「青島から来た兵士たち」のP124に載っていますタデウス・ヘルトレについて質問があります。
ヘルトレは解放後に日本人女性と結婚後、西宮の大学で英会話教師を務めていたとありますがこの大学というのはどこの大学なのでしょうか?
というのも私の通う大学が西宮にあり、もしかしたら同じ大学なのではないかという疑問が同じように学ぶゼミの中で浮かび上がってきました。
さまざまな他の本や資料、サイトを見て調べているのですがどうしても大学名までは分かりません。
もしご存知でしたら教えていただけませんでしょうか?
いきなりの質問失礼いたしました。
 

データ引用の許可をお願いします

 投稿者:中島メール  投稿日:2011年10月 4日(火)15時26分43秒
  kurumenmon.comで久留米の歴史的文化などについて情報を収集してサイトに載せているものですが、今朝、JAPANREFERENCE
http://www.jref.com/forum/showthread.php?t=166&page=2で、私のサイトにあるドイツ兵俘虜慰霊碑の画像が載っているのを見て、久留米に関係する部分を増やしたいと情報を探しておりました。下記の2つにデータを引用というよりはコピーしています。
http://kurumenmon.com/higasikokubu/germanfuryo_hi/furyo_kurume.html
http://kurumenmon.com/higasikokubu/germanfuryo_hi/germansireihi.html
図書館で調べてもなかなかたどり着けなくて、申し訳ありません。
不都合な部分、間違いなどありましたら、ご連絡いただけませんか。できるだけ早く削除や訂正いたします。
勝手なお願いですみません。

久留米に関するサイトでも、関係者の高齢化が原因なのか、かなり多くがリンク切れなどになっています。このままでは何も残らなくなるのではないかと心配です。

http://kurumenmon.com

 

山田大尉の件

 投稿者:阿讃メール  投稿日:2011年 5月23日(月)22時33分33秒
  瀬戸先生、早速のご連絡をありがとうございます。私は冒頭で難解に記していますが、つまりお察しの通りです。所蔵者の方と接触出来たようにも感じられますが?
このような大小のサプライズが「辞令書」に潜んでいることも多いのです。   武間
 

山田大尉の辞令書

 投稿者:瀬戸武彦  投稿日:2011年 5月23日(月)11時54分50秒
  武間 様

武間さんの掲示板で、今二重、三重の驚きに包まれています。一つは、長年思い続けてきた山田耕三大尉の実像にかなり迫ることが出来たからです。これは至極素直な驚きです。感激そのものと言ってもよいでしょう。もう一つは不思議な驚きです。ほんの四日前に、辞令書の存在について聞き知ったからです。今はここまで記すだけに留めましょう。武間さんにはすぐに推測がつくことでしょうから。掲示板を早くに見たのも、こうした背景があったからです。また記します。
瀬戸武彦
 

「その後」の山田大尉

 投稿者:阿讃メール  投稿日:2011年 5月21日(土)10時40分25秒
   瀬戸先生、先日は大変お世話になりました。あれから多少間が空きましたので、いつこれをご覧いただける事でしょうか。それでは早速ですが「ドイツ俘虜等との交流で知られる山田耕三大尉」と断定できると思われる、私なりの資料を発見いたしましたので報告させていただきます。これらは「辞令書類」で、合計30通程度あり関東地区から出た物のようです。ただこれらの多くは現在、ご子孫ではないと思われる複数個人の所蔵となっており、昨今の個人情報等の問題もあり、私自身その詮索を許されない状況でありますので、この点ご承知おき願います。しかし写真は実見し、私の判断では「間違いのない物」でした。いつか所蔵者により、接触もしくは公開されることがあればと期待するばかりです。また写真提供者も山田耕三については何も知らず、しかも提供者に関する一切の個人情報の開示は許されておりません。このような前置きのために多少物足りないとか疑念を持たれるかもしれませんが、私としては自信を持って、以下それらの内容につき報告してゆきたいと思います。まずはポイントとなる物のみを時系列に並べて記してみます。
 ※( )内は辞令に記された山田耕三の身分等。M=明治 T=大正 S=昭和。
①M37年10月 陸軍士官学校卒業証書   (近衛歩兵第三連隊士官候補生)
②T5年5月   免青島守備軍司令部附 青島軍政署附仰付
                      (歩兵第66連隊附陸軍歩兵大尉)
③T5年7月   依願予備役被仰付     (陸軍歩兵大尉)
④T5年7月   青島軍政署 国際関係事項調査事務嘱託 月手当130円
⑤T7年10月  青島守備軍民政部鉄道事務官ニ任ス(陸軍歩兵大尉従六位勲四等)
⑥T10年3月  六級俸  (青島守備軍民政部鉄道事務官)
⑦T11年2月  東洋拓殖㈱本社事務員嘱託 本店調査課勤務 月額金200円
⑧T12年10月 東洋拓殖㈱ 参事ヲ命ス
⑨T14年12月 東洋拓殖㈱ 月俸金180円 (社員)
⑩T15年2月  東洋モスリン㈱ 調査事務嘱託 年手当金2千円
⑪T15年2月  東洋モスリン㈱ 参事任用 年俸金2千円   (嘱託)
⑫T15年8月  東洋モスリン㈱ 依願解傭  (参事)
⑬S3年12月  東京瓦斯㈱ 調査事務嘱託 月手当180円
⑭S6年11月  東京瓦斯㈱ 依願解嘱託 手当4500円支給 (嘱託)
 以上であり、少尉~大尉の間の軍人部分は現在未確認です。しかしむしろ肝心な、不明とされてきた「その後の山田大尉」の姿が明らかになりました。
 それではこれら辞令類を、これまで先生方の研究された内容と比較してみます。
 まず松尾先生は「明治39年で彼は近衛歩兵第3連隊付き少尉。12,14年に歩兵第66連隊(宇都宮駐屯)所属であったこと(1907年の資料は所在不明)、1917年にも青島軍政署に勤務していたこと」を書かれてありますが、陸士卒業証書(M37)には近衛歩兵第三連隊士官候補生と明記されており符合します。そして1916年5月の辞令には「歩兵第六十六連隊附陸軍歩兵大尉山田耕三・・・青島軍政署附被仰付」とあり、1912~14年の66連隊所属が想定されますし、しかも軍政署勤務の事実及び時期も合致しています。さらに松尾先生は「したがって、遅くとも1918年には山田は陸軍を離れるか、他界していたであろう」と推論されていますが、1916(大正5)年7月に予備役として現役を退いている辞令により、それが実証されました。
 また瀬戸先生は『俘虜名簿』(ユーハイム)のなかで「青島に留まったエリーゼ夫人は困り果てた時幾度となく山田耕三大尉に訴え、その都度親切にしてもらった。大戦が終結しての1920年1月25日、エリーゼは息子カール・フランツを連れて青島から神戸に着いた」と書かれています。今回の辞令によると山田大尉は「青島守備軍司令部附⇒1916年5月:青島軍政署附⇒1918年10月:青島守備軍民政部鉄道事務官」と青島勤務が続き、さらに1921年3月時点で鉄道事務官のままで昇給辞令を受けている事実からして、少なくとも、ユーハイムが捕虜とされてからエリーゼ母子が日本へ渡るまでの間はずっと山田が青島に居た事が確認されました。これにより「幾度となく山田耕三大尉に訴え、その都度親切にしてもらった」事が可能であったこと、ひいては山田が、母子の日本行きに大きく関わっていたであろう事も想像されます。しかもご存知のように将校の官名は終身であり、エリーゼがいつまでも「山田大尉」と呼んでいても、それで正しかったわけです。
 ところで私が特に注目したいのは山田大尉が「依願予備役被仰付」であったという点です、つまり「山田大尉の願いにより予備役」なのです。通常は「予備役被仰付」「予備ヲ命ス」といった具合で、好んで希望する人は殆ど居ないでしょう。私自身、寡聞ではありますがこのような例は見たことがありません。陸士という将校養成所を出てドイツ語通として知られながら、大尉のまま予備を希望するにはそれなりに重大な決意があったはずです。同日付で「青島軍政署国際関係事項調査事務嘱託」となり月俸130円もの高給取りとなってはいますが、何よりも彼は青島に残りたかったのではないでしょうか。ドイツ兵等へ深い人情味を見せた彼は、むしろ「軍人」ではなく、青島に残って少しでも彼らの手助けをすることが自分の使命だと感じたのではなどと、私は想像してみるのです。
 しかし山田は、大正11年2月についに青島を後にし、京城にある国策会社東洋拓殖㈱本店調査部に勤務することとなりました。以前私はこの会社の「社員名簿」の小冊子を目にしたことがあります、この冊子の発行されていた年代等の詳細は存じませんが、山田が大正15年2月に次の就職先である東洋モスリン㈱へ行くまでの間の名簿を確認すれば実証が出来るのではないでしょうか。
 そして山田は昭和3年12月に東京瓦斯㈱事務嘱託となりましたが、昭和6年11月には依願解嘱託をして4,500円もの退職手当を貰っています。松尾先生の調査によると山田は1884年生まれ、今回の最後の辞令は1931年で、まだまだ48歳の若さでした。今のところ、以後の経歴は不明です。
 私が「ドイツ俘虜収容所通訳辞令」に出会ってから一年足らず、そして瀬戸先生に何度もご教示をいただき「ドイツ俘虜」への認識を深めてから僅かの後に、これら辞令がこうして私の前に現れた事はただの偶然とは思えません。もし以前の私なら、大尉レベルの特徴の無い氏名の方のこれら辞令などは見過ごしていた事でしょう。きっと山田大尉が、歴史の闇に埋もれつつあった自らの履歴を、研究者の皆様に知っていただくべく、私の前に出して来られたのだと思えてならないのです・・・いかが思われますでしょうか?     武間達也
 

南洋群島

 投稿者:瀬戸武彦  投稿日:2011年 2月 7日(月)15時45分6秒
  武間 様

①金鵄勲章を貰うことが下士卒にとってどれほど名誉であったかは、今日では殆ど理解されなくなっ たでしょう。大正三、四年戦役で勲章をもらった軍人の総数は7万数千名と、ドイツ側の文献は記し ています(日本の資料での総数は当方には不明)。日独戦争での日本軍総数は陸海軍合わせて5万  5000名程です。大正4年以降に地中海方面に繰り出した海軍を考えても、1万人以上の軍人が日本国 内での後方勤務で叙勲に与っているのでしょう。
②パリ講和会議に関して当方は、これまで何も考えてきませんでした。日独戦争関係軍人がいたかど うか、今後の課題とします。
③日本軍が南洋群島を占領すると、翌年には文部省学術局が専門家10名程を派遣して学術調査をして います。主として東京、京都、東北、九州の各帝国大学の教授・助教授で構成され、地質・鉱物  学、水産学、植物学、物理学、医学に留まらず、人文系の民俗学の研究者もいました。

松山、丸亀はロシア兵俘虜が大勢収容され、しかもドイツ兵俘虜の場合と違って、結構自由な行動をしていたので、色々と語り伝えられることがあったようです。

瀬戸
 

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